戦国時代のこと。浅羽の西端を流れる原野谷川は、現在のように二瀬橋のところで太田川と合流せず、東側を沿って流れていた。しかも、その流れはいくども蛇行し、長雨が続くたびに洪水を引き起こしていた。
これでは川沿いの村人は安心して田畑を耕すことはできないと、殿様は川に沿って堤を築いたが、どうしても中村の端っこだけは川筋が大きく曲がり、あふれ出た水が直接当たって堤が切れてしまう。洪水の勢いで地面は深くえぐられ、窪地ができる。人々はその場所を釜下と呼んで恐ろしがった。堤を破った水は米丸村や一色村の田んぼに流れ込み、大きな被害をもたらして村人の悩みの種となっていた。
土地の大庄屋は思案を重ね、人柱を立てて水神に捧げ、堤が切れないように頼んでみようと考えた。しかし、誰を選ぶべきか・・・小作人の若者に白羽の矢が飛んだ。庄屋は彼を屋敷に招いてご馳走を振舞い、ありったけの酒を飲ませてもてなし、若者に村人のために犠牲になって欲しいと頼んだ。若者は庄屋の申し出を承諾し、堤の下に埋められ人柱となった。
再び堤造りが始まる。今度は入念に、基礎杭を何本も打って堤の土を盛り上げ、立派な堤が完成した。その後、堤は切れることがなくなり、村人はその若者に心深く感謝したという。
徳川の時代になり、原野谷川と太田川の合流工事が完成して川筋は大きく変わり、村人の記憶も薄らいでいった。しかし庄屋さんの家ではこの若者のことを代々語り継ぎ、感謝の気持ちを持ち続けているという。
(西浅羽のある庄屋さんの家に伝わるお話しより) |