その昔、徳川家康が三方原の戦いに敗れて、浜松城へ逃げ帰ってきた後、武田方は勢いよく城門の近くまで追ってきました。このとき家康は、後から逃げ帰って来る者のために、城門を開いたままにして、城門の外へ、とてつもない大きなかがり火を焚かせました。
武田方はこの大きなかがり火を見たとたん「何か策略でもあるのではないか」と城の近くで様子を見ることにしました。
すると城の中を守っていた酒井左衛門尉忠次が、突然、太鼓を高々と打ち鳴らし始めました。
驚いた武田方は「きっと何かあるにちがいない」と思い、急いで浜松城から離れていき、徳川家康は、かろうじて城を守ることができたという物語があります。その酒井忠次が打ち鳴らして、敵を退散させた太鼓が「酒井の太鼓」と呼ばれています。
「酒井の太鼓」と伝えられている太鼓は、その後、見付の所有となり、明治8年夏に見付小学校校舎(現在の旧見付学校)が落成した際、小学校に寄付されました。そして太鼓は5階の楼上に据えつけられ、明治43年まで、生徒の登下校と正午には、毎日時報として打ち鳴らされました。
現在、この太鼓は、旧見付学校に展示されています。また、地元の磐田市立磐田北小学校には、太鼓クラブができて、子供たちが酒井忠次に負けじと太鼓を打ち鳴らしています。
(磐田むかしばなしより) |