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中遠昔ばなし

第79話   (たけだしんげんとそのそくしつ「ねづのかた」)
武田信玄とその側室「禰津 (ねづ) の方」(袋井市)

武田信玄とその側室「禰津 (ねづ) の方」(袋井市)

 風林火山の旗をなびかせて、関東・甲信越・東海地方にまで勢力をのばしていた武田信玄と、側室「禰津(ねづ)の方」のお墓が袋井市堀越にあります。
 武田信玄は、元亀三年(1572)十二月、三方原で徳川家康と戦った後、翌年二月に三州三河の野田城を攻め落としました。
 このころから、信玄公は病気が少しずつ悪くなってきましたので、伊那街道を北に向かい甲斐へ帰ることにしました。けれども病気はますます重くなり、この年の四月十二日、三州田口という所で五十三歳で亡くなったのです。
 信玄公が亡くなるまでずっと付き添っていたのが側室の一人「禰津(ねづ)様」です。禰津様は、信玄公亡き後、正室やほかの側室のいる甲府へ帰ることを遠慮して、信玄公の遺髪と常に持っていた薬をいただいて、信玄公の子供二人と数人のお供を従えて、遠江、堀越の里に隠れ住んだのでした。
 そして、遺髪を埋めたところにお堂を建て、「福田寺」(ふくでんじ)と名付け、信玄公の供養をするとともに、「信貞」「信清」の二人の子供を育てました。そして守り刀と共に霊薬も大切に守っていきました。
 兄の信貞は、武田家滅亡の時甲府で亡くなっています。弟の信清は、上杉景勝に仕え、会津から米沢に移り、現在も子孫が暮らしているそうです。
 信玄の亡くなった奥三河の田口にも「福田寺」があり、ここには信玄公のお墓といわれている五輪塔があり、そこからも「福田寺」と名付けて信玄公を弔ったことと思われます。
 福田寺については、明治二十四年に海蔵寺に統合されて建物だけが残され、本堂は報徳社などに利用されていましたが、昭和十九年の震災で倒れてしまいました。

(「袋井に伝わる昔話」より)

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