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中遠昔ばなし

第104話   (みつけじょうとばらきだんじょう)
見付城と茨木弾正(磐田市)

見付城と茨木弾正(磐田市)

 家老の茨木弾正(ばらきだんじょう)は、見付城主堀越用山(みつけじょうしゅほりこしようざん)に呼ばれて、
「今川勢の天野虎景(あまのとらかげ)の軍勢が攻め寄せてくるから、屋城山城(やしろやまじょう)や向笠城(むかさじょう)へ行って、応援を頼んでくれ」
との命令を受けました。天文(てんもん)六年[1537年]のことでした。
 当時の遠州地方は、今川義元(いまがわよしもと)が勢力をもっていて、北からは武田方がねらっていたり、その他の大名も自分の勢いを伸ばそうとして、全国的にも争いの絶えない戦国時代でしたから、この磐田地方でも、いつ戦争が始まるかわからないという状況にありました。
 見付城は、磐田市二番町の大見寺から磐田北小学校周辺にあって、「見付端城(みつけはじょう)」とも呼んでいましたが、地主は掘越用山(ほりこしようざん)[掘越氏延(ほりこしうじのぶ)、掘越六郎等といくつかの説があります]で、見付地方にとっては良い政治が行われていました。
 この頃、浜松の大河内備中守貞綱(おうこうちびっちゅうのかみさだつな)が今川義元と争っていましたが、掘越用山は大河内貞綱に味方していたので、今川氏は北遠に勢力をもっている天野宮内右衛門虎景(あまのくないうえもんとらかげ)に、見付城を討つように命令が出されたのでした。
 家老茨木弾正は、見付城の一大事ですから、向笠城[磐田市向笠竹之内]や屋城山城[旧磐田郡豊岡村]へ、応援を依頼するため馬をとばしました。城主のことが気になりますので、お使いを済ませて大急ぎで帰ってきますと、はるか南の見付城のあたりから煙があがっております。近づいて見ると、見付城は猛火に包まれていて、陥落寸前でした。これを見た弾正は、もうこれまでと覚悟して、茨木にある自邸に戻り、自害して果てました。
 茨木弾正の屋敷は、磐田市住吉町の県道磐田山梨線沿いの、天神社と元天神社の中間に位置していました。この地には、山住神社(やまずみじんじゃ)を勧請(かんじょう)して賑(にぎ)わったこともあったと言われていますが、現在は高台の松林になっていて、茨木団地が造成されています。横の坂をバラキ坂と呼んでいます。その西の方に茨木という小字が残っていますが、ここが茨木弾正の屋敷跡だと伝えられています。

(「磐田むかしばなし」より)

見付端城跡   大見寺門前の看板
見付端城跡   大見寺門前の看板

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