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第110話 | (きょうみづかとかいじょうおう) 京見塚と戒成王(磐田市) |
磐田市高町(現在の磐田市国府台)に京見塚という立派な古墳があります。
この古墳は桓武(かんむ)天皇の皇子戒成王(かいじょうおう)のお墓であろうと伝えられています。 戒成王は、小さい頃白い雀を可愛がって飼っていました。ある日のこと、籠(かご)の戸を開きますと、白雀は籠からとび出してしまい、南殿にある白砂の上にとまりました。皇子は急いで雀の近くへ行き、「これは命令です。もとのように籠に帰りなさい」と言われますと、白雀は皇子の手に止って、元の籠の中に納まりました。そのときから、皇子の左足が急に痛み始めました。 そこで、皇子の足を治すために、博士をお呼びになって占いをしました。博士は、「このお方は皇位をお継ぎになる立派な方でありますが、膝つきの例を行なわずに歩かれたので、天地の鬼神のお怒りにふれて癩(らい)人(病気)になられてしまいました」と云いました。皇子は、自分の病気が重くて治らないものだとわかったので、嘆き悲しみました。 そして乗物を支度させて、五人の家来と十七人の長吏(ちょうり)に守られて、住みなれた皇居をあとに秘かに悲しい旅に出られてしまいました。都から東に向かわれた一行は、やがて遠江国へ着きました。 「衣手(ころもて)のなみだに空もはれやらで、都のかたは白雲ぞたつ」はるか都の方を見れば白雲が空にたち込めているが、私の悲しい心と同じように、空も曇りがちですという意味の歌をよんで悲しまれました。 一行は更に進んで一言の上野原へ来たとき乗物を止め、この地に住むことに決められました。方一町(約一万平方米)に垣を作らせ、館を建てられました。これを「上野の原の長吏の御館」と呼び、土地の人たちの世話も受けて、お暮らしになりました。この地に十一年程住んで戒成王は病気で亡くなられますが、遺品、その他を円形の石棺(舟の形をした石の墓)に納めて、立派な塚を作って葬りました。これが現在の京見塚であると伝えられています。 皇子が都恋しくて、いつも西の空を眺めては、京を偲(しの)んだので、京見塚になったとも伝えられています。磐田市では、現在この京見塚を中心に、児童公園として整備されています。 (「磐田むかしばなし」より) |
現在の京見塚古墳 | 戒成王の歌碑 |
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