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中遠昔ばなし

第134話   (なかいずみごてんといえやす)
中泉御殿と家康(磐田市)

中泉御殿と家康(磐田市)

 慶長(けいちょう)十九年(一六一四年)十月十三日、中泉御殿にいた徳川家康は、朝から落着かなくていらいらしていました。駿府(静岡)から中泉(御殿)に着いたばかりの、使者板倉周防守重宗(いたくらすおうのかみしげむね)は、僧の源栄(げんえい)等とともに徳川家康の御前で、大阪征討の作戦会議に入りました。
 結果的には、大阪冬の陣では和議が成立して、翌元和(げんな)元年には大阪城の掘の埋立てが完了します。その年の三月には、再び大阪方が挙兵したので、家康はまた、中泉御殿で板倉重宗を参謀として、大阪夏の陣の作戦を練ることになりました。さすが不落を誇っていた大阪城は、夏の陣で落城して豊臣方は大敗し、歴史の流れは徳川政権確立の時代に入ることになります。
 このように利用された中泉御殿は、天正六年(一五七八年)に秋鹿(あいか)氏の屋敷を久保村(久保町)に交換地を与えて移転させ、徳川家康が仮別荘を作ってから、立派な御殿を作ることになりました。現在残っている御殿の地名は、家康の屋敷にあやかってこの地名となっています。中泉御殿の築造は、駿河、遠江、三河の三国からの国役(各国の負担による事業)で建設され、伊奈熊蔵(いなくまぞう)がこれに当ったと言います。現在の中泉寺から南東にかけて、数千坪の規模で建設され、寛文年中まで八十余年使用され、家康の国内統括の作戦本部であったと伝えられています。
 中泉御殿の廃止後は、主殿及び裏門は西願寺(西町)に買収され、書院は常楽寺(堀之内町)その他に分散されて、現在も三百年以前の姿をしのばせています。現在、御殿町公会堂の南側にあった庭地も埋立てられ、その跡を留めなくなりましたが、地名がその昔を物語ってくれます。後に、この御殿の一部に陣屋を設けて代官を置き、近郷の政務をとっていましたが、家康が国内統一後は、遠江、三河の直轄地まで支配する代官所がありました。
 中泉御殿に関する記録は多くありませんが文政(ぶんせい)六年(一八二三年)に古賀●庵(こがどうあん)の書いた「遠州中泉古城の記」があります。内容的には、徳川将軍を礼讃(らいさん)したものですが、文中に御殿古城の面影の一部をうかがうことができます。この内容を碑文として建設するように立案されたものですが、幕府の財政事情があって建設は許可されず、原文のみが残っています。
 「見付宿より左に折れて行くこと数百歩―中略―中泉の古城跡なり、地は方六百間(約一粁)ばかりにして、水をめぐらし……。」と書かれています。

「磐田むかしばなし」より

※●はイ(にんべん)に同

移築された裏門(中泉・西願寺)   移築された表門(見付・西光寺)
移築された裏門(中泉・西願寺)   移築された表門(見付・西光寺)

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